本土寺

縁起

常在山本土寺(じょうざいさん ほんどじ)は、京都日蓮教団発展の礎を築いた事で著名な肥後阿闍梨日像(ひごあじゃり にちぞう)上人(1269~1342)による開山であり、正安2年(1300)の建立と伝えられております。

弘安5年(1282)10月11日、臨終の床にあった日蓮聖人(1222~1282)に、その御生涯でついぞ叶わなかった京都での弘通を、若干13歳の日像上人に託しました。

永仁元年(1293)、24歳になった日像上人は、遺命を果たすべく、その年の冬より百日間の寒中修行に入り、翌永仁2年(1294)2月に無事修行を満願した後、いよいよ京都弘通の旅へと出発しました。

鎌倉を発った後、小湊、清澄、身延、佐渡の日蓮聖人の霊蹟を巡拝し、佐渡島からは船で能登七尾(現在の石川県七尾市)に向いましたが、その船中にて偶然乗り合わせた一人の修験者と法論を交わすことになります。

その修験者は名を萬蔵坊(まんぞうぼう)といい、当時の修験道の巨刹「石動山天平寺(せきどうざんてんぴょうじ)」の衆徒であったといいます。

法論の結果、日像上人に感服した萬蔵坊は名を日乗(にちじょう)と改め、以後しばらくその行動を共にしました。

七尾に着船後、萬蔵坊に請われた日像上人は共に石動山を登り、天平寺の大衆に向って法華経の教えを説いたのですが、これが一山の不興を買い、萬蔵坊共々、天平寺を追われ、石動山の衆徒に命を狙われることになります。

武器を手に追って来る石動山衆徒から逃れる最中、平野を挟んで石動山と対極に位置する眉丈山(びじょうざん)の麓の農村、西馬場(にしばば)に差し掛かった所で、日像上人が付近の農夫に助けを求めたところ、加賀太郎(かがたろう)・北太郎(きたたろう)と名乗る兄弟がその求めに応じました。

法難の立像

兄弟は日像上人を「五音坊(ごおんぼう)」なる場所にお隠し申し上げ、迫る石動山衆徒に対して鋤鍬を手に立ち向かい、防戦奮闘しましたが、多勢に無勢、石動山衆徒を徳前河原まで追い返したところで力尽き、壮絶な最期を遂げたと伝えられております。

時に永仁2年(1294)3月21日、兄加賀太郎35歳、弟北太郎32歳でありました。

兄弟の命懸けの行動により、難を逃れた日像上人は、眉丈山を越えて柴垣(しばがき)の浜に出て、そこから船で京都を目指されました。

無事、入洛を果たした日像上人は、京都で布教活動に励まれる中で、兄弟の法難殉死7回忌に当たる正安2年(1300)、その菩提を弔う為に、弟子の乗純妙文(じょうじゅんみょうもん)を遣わして、西馬場の地に一寺を建立し、兄加賀太郎に祐乗(ゆうじょう)上人、弟北太郎に道乗(どうじょう)上人の法号を授与されました。

また、日像上人の生地平賀の寺名に因まわれ「常在山本土寺」と号し、今日に至るまでの七百有余年、絶えること無く、その法灯を伝えております。